先月の書道鑑賞入門で雁塔聖教序のことを書きました。
それ以来、聖教序つながりという訳でもないが、
集字聖教序に関し、気にかかっていたことがあったので、
今日は、紹介しましょう。
『書を志す人へ Ⅱ』 今井凌雪著 二玄社発行より
~(略)~ 高野山で合宿講習会があって、尾上柴舟先生や西川靖闇先生、松丸東魚先生なども見えた。僕も参加させてもらって、西村桂州先生などと、王鐸や金冬心の臨書を得意になってやったものである。その時西川先生が、何かの必要から、「集字聖教序を誰か持ってませんか」と尋ねられた。世話役のM氏が「この講習会に来ている人は、展覧会の作を書くくらいの人たちだから、聖教序などは持っていないでしょう」と答えた。事実誰も持っていなかったし、Mさんが言いたかったのは、そんな初歩的な法帖をやっている人はない、ということであった。西川先生は、「そうですかねえ、僕は一ばん大切なものだと思うのですが」と言われた。明清一辺倒の参加者への痛烈な皮肉である。しかし、どれ程の人にそれが通じたであろう。
こんなことを書いても、王鐸より聖教序をやれと言いたいのではない。王鐸も良いが聖教序も大切だ。そして、更に一歩進んで、聖教序がどうしてそんな地位にあるのか。本当に聖教序がそんなによいものなのか。良いとしても、われわれがどういうわけで習わねばならないのか、常にこのように掘り下げて考えほしいと思うのである。
(後略)
名前は、一部イニシャルにしました。
少し難しいですが、
書道というのは、
入門だとか基礎だとか言って、既にならったものをおざなりにするのではなく、
じっくりと、何度も繰り返し学び、足元を固めて、学び進みましょう。
と、言うことだと私は、理解している。
書道を鑑賞することも、書いて学ぶことも、私たちは、どうしても、
前へ前へと進もうと思うがあまり、また、長い歴史を前に、
ひとつひとつを軽んじてしまう傾向がある。
今日は、私自身への戒めとして、覚書として、
残したい一文をご紹介しました。
【参考】集字聖教序は、集王聖教序ともいわれることがあります。