つれづれなるままに古典・古筆の臨書書道作品制作

臨書は作品なのか?

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書道の作品には、創作作品と臨書作品がある。
臨書は、作品と認めない説もあるが、私は、臨書も作品として成立すると考えている。

臨書も作品に含めると解する考え方の中で、
作品である以上、工夫が必要と解する説もあるが、
私は、出来る限り臨書作品であっても、忠実に臨書すべきと解している。

残念なのは、説の相違を理解しないまま、
自身の考え方、捉え方以外の説を知ろうともせずに、
或いは、異なる説があることも知らないまま、
他の説を誤りだと、信じてしまっている方々がおられることである。

金子みすずさんの「みんなちがってみんないい」ではないが、
自分自身の考えや好みと異なる説であっても、
その説を理解し、書のすばらしさを共感できれば、
「そんなに素晴らしいことはないじゃない!!!!!」
と、私は、簡単に、単純に、そう思う。
臨書を作品と認めない説の理由も理解できる。
この説では、作品は、創作であるべきと理解される。
しかし、書道の特殊性から、創作の過程に倣書を含むと、
この理由づけには、矛盾が生じる。
作品は、創作であるという説は、「最もだ」と思いはするものの、
この説に立つと、私などは、作品を仕上げなられなくなってしまう。
私にとっては、究極の憧れ、理想的立場とも思える。

臨書を作品と解しても、作品には工夫が必要と解する場合、
勝手気ままに工夫を加え、古典原本から遠く離れてしまうことは、
果たして、工夫と捉えられるのだろうかとの疑念が生じる。
又、学びが浅い方に多くみられるのは、
文字を調べもせず、旧字体などを誤字と解して、現在の文字に書き換えたり、
行のうねりによる自然な盛り上がりを歪みと解して、まっすぐに直したと堂々と言ってのける。
古典や古筆は、長い年月をかけて、この世から消えることなく、多くの人々の手によって、守られ、踏襲されてきたものだということ理解できない、感じられていないことは、全く残念でならない。
この説にいう工夫とは、決して、そういうことではないはずなのに・・・。

そういう人に出会うと、なぜ、書道を正しく学ぶ機会を得られなかったのだろうか。
それが若ければ若い程、この先の書道の伝えられ方に不安を抱く。
書を正しく学ぶとは、何か。
そのことは、掘り下げて考え続けねばならない命題であるものの、
書を伝える仕事に携わるものとして、少しでも、そういう誤解をする人が減るよう努めていきたいものだ。

少々、くどい。
いや、かなりくどい。
と、思いつつ、
共に書を学び、共に書のすばらしさを共感できる人が増えて欲しい。
だから、今日は、くどくとも、書いてみようと思った次第。

 

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