このタイトルは、よく考えるとおかしいですね。
今月の書道鑑賞入門の更新は、いつもの古典鑑賞に変わり、
書道作品を鑑賞する際に、文字を読むかどうか、つまり、作品の内容について考えてみましょう。
書道とは、文字を素材とする芸術である。
と、よくいわれます。
この点については、様々見解、および、解釈がありますが、ここでは、一般的な書道鑑賞者、書をはじめて間もない方を対象に書き進めます。
書道作品では、素材である文字は、読むものか否か。
書道をはじめて間もない方にとっては、真剣な質問なのです。
つまり、長年書道三昧の日々を送ってくると、
書を読みこなすことの難しさを痛感するものですから、
私自身もそうですが、読まずに書き、読まずに鑑賞する癖がついてくる。
読まないでも書ける、読めないでも書ける。
本当は、恥ずかしい話です。
しかし、臨書や漢詩、和歌などばかりを目にしていると、何が書いてあるのかを把握し、書ければそれで良いと考えるようになります。
その理由は、よい書を学ぶことが大前提にあるからです。
漢詩にしても和歌にしても、それぞれが独立学問になっていることからもおわかりの通り、そのすべてを理解するためには、一生を費やしても足りないくらいの時間を要します。
書作品にする内容は、理解する程度にとどめ、書として、その線質を学びとりたい!
書を学ぶものにとっては、それが優先してしまいます。
しかし、一般的に考えると、書を始めた以上、内容をわかって書きたいというのが、心情でしょう。
同時に、普段、書を観る経験の少ない方は、何が書いてあるか、そればかりが気になってしまい、結局、書の醍醐味である線の美しさに目を留めことを忘れてしまう。
私は、書を鑑賞する際には、出来れば、心の眼で観てもらいたい、つまり、読むことは、観た後にしてもらいたいと渇望しています。
ただ、制作者側には、作品を発表する際、内容を説明出来る程度に理解しておくべきだろうと思います。
高校生の頃、作品が売れてうかれているところに、白髪の男性の方から、質問がありました。
「これは、何と書いてあるのですか?」
私は、辞書で引いたり、釈文を読んでもわからなかったことを伝えました。
そうすると、再び、その方から、
「わからないものをなぜ書いたのですか?」
と、問われ、赤面して何も答えられなくなりました。
青い時代の苦い経験です。
今も、漢詩や和歌、古典、古筆のすべてをスラスラと読みこなせるわけではありません。
読めるものもあれば、読めないものも、たくさんあります。
しかし、それでも、書き続けるのは、書が楽しい、ただそれだけです。
その点、近代詩文を書いているときは、日頃の用いている言葉なので、読むには、問題ありませんが、今度は、表現したい線が、ひらがなばかりでは、表現できないこともあり、私は、やっぱり、漢字が書きたいと思うのです。
これは、書作家により異なる思いがおありでしょう。
本当に書道って、不思議なもので、つかみづらいものですね。