園児のころから、運営している書道教室に通ってきている現在小学生低学年の少女が言った。
「最近、私、サボってるよね。」
「そうだね」この言葉を飲み込んで、「幼稚園の頃は、小さいのに頑張っていたよね。」と、返事した。
大人らしいずるい答え方だと自分でも思った。
「書道は、面白いし、楽しいから、上手くなりたいけど、最近、なんでかわからんけど(何故かわからないけれど)、めっちゃ頑張ってないよね」
自分自身でも、頑張りきれていないことに対する自覚があるようだ。
「なんでかなぁ」と、ゆっくり聞いてみる。
「それが、わからん。書道って、はじめは、いいけど(どんどん上達するけれど)、だんだん、わからんよなぁ(上達しているかどうかがわからない)。」
「そこで頑張るには、上達することだけが楽しいのではなく、書道そのものの楽しみ方がわかれはいいんじゃない。」
低学年の小学生に、この言い方で伝わるかな? もっと、噛み砕いて言うべきだろうか。いや、彼女は、上達していることに自覚がある以上、子供扱いするべきではない。私の大切な書道仲間なんだと、対等にアドバイスした。
少女からは、「考えるわ。」の一言が返ってきた。
えっ、そこは、私に尋ねないで、自分自身で考えるの?
そう思っていると、更に少女が言った。
「書道って、自分で考えなあかんやろー。」
「すごい! 書道の事、わかってきているじゃない。」
にっこりとして、「ありがとうございました。さようなら。」
ちゃんと伝わっているんだなぁ。うれしくなった。
私は、書道の楽しみは、上達と共に、変化してゆくものだと思っている。それを言葉にして伝えられるかと言えば、非常に難しいように思う。年齢によっても異なるし、キャリア、レベルとも関係する。また、書道に関連する様々な知識、教養の有無、深さなどにも左右される。
書道を一定水準まで理解すれば、実用書道に少し芸術的要素が加われば満足する人もいるが、書道の本来的楽しみは、その先にあるように思えてならない。そこに出会えていない人は、もったいない。
多くの書道愛好家がその楽しみに気がついていなかったり、知らなかったりすると、それを伝えて、共有したいと思えてならない。が、しかし、そういう人に出会う度に、そんなことを力説してばかりでは、ある種のコワイ人になってしまう。
はがゆい。
実のところ、きょうほ書院として書道教室を立て直し、子供書道を再開したきっかけは、そんなところにあるのです。
共に歩み、書を楽しみ、共有できる仲間作り。