何紹基(かしょうき)は、清代を代表する書家で、中国はもちろんのこと、日本でも人気の書家の一人です。
何紹基の作品で頭に浮かぶのは、行草の「おばけの(ような)書」と、臨張遷碑(りん ちょうせんぴ)ですね。
行書の作品画像⇒文化遺産オンライン
臨張遷碑は、二玄社『中国法書選 57 何紹基』に掲載されています。
画像リンクは、中国 百度文庫
(清)何绍基隶书临张迁碑 を参考にしてください。
張遷碑は、後漢末期の隷書で、曹全碑と比較して、学ぶ方が多いように思います。個人的には、曹全碑よりも、張遷碑の方が楽しく臨書できるので、よく臨書します。
臨書を鑑賞する楽しみでもありますが、何紹基の手にかかれば、張遷碑は、さらに味わい深く、点画そのものが今にも踊りだしそうなものになる。
ここで注意したいのは、素人だって、何十年臨書を経験したものでは、到底、収まらないようなものになることを肝に銘じておきたい。伝わりにくい表現ですね。
「何紹基のような姿勢でいきなり、張遷碑を臨書しようなんて、考える方がいるので、それは、避けなければならない」って、お伝えしたかったのです。
何紹基の手にかかれば、なんでも化けてしまい、とても言葉では表現できない、魅力的なものになる。私なんぞが真似ようとしても、つかみどころがなく、手を焼いてしまい、どうにもこうにも、その魅力をわが手におさめられようもなく、作品に取り入れれば、怖いもの(失敗作)が出来上がってしまう。先に書いた「おばけの(ような)書」とは、そのような意味です。
私程度どころではなく、何十年、何紹基を学んでおられる諸先輩方といえども、そうやすやすと見れるようなものが出来上がるとは思えないのです。
書の魅力の一つは、自分自身が書ける楽しみ、出来ないものをこつこつと努力し、近づこうとする過程にありますが、書けないものを鑑賞し、眼力(鑑賞眼)を磨くことも又書の魅力のひとつだと私は、そう思います。
私は、何紹基の臨書をしているとき、よく恩師、今井凌雪先生を思い出す。
「今井先生、「おばけのような書」って、こういうことですか???」って、今なら、少しは、言葉で表現しながら尋ねられるのに、今、質問できないことが、悔しくてなりません。だから、勝手に、「今井先生だったら、こう言ってくださったのではないか」と、ひとり勝手に答えを出したり、出した答えを疑ったりして、模索しています。いつか、あちらの世界で、今井先生にお会いするときまで、まだまだ時間があるはずなので、その時が来るまで、模索は続きそうです。
新年にあたり、皆さまにも、すばらしい指導者との出会いがありますように。
今年も、時間がある限り、書道鑑賞入門を更新しますので、よろしくお願いします。