私は、常日頃から、生き生きとした書を求めている。
子供たちは、生き生きとした書=元気な書=自由、好き放題・・・・
などと連想するようだ。
子供は、それでもいい。
間違って欲しくないのは、自由や好き放題をはき違えることで、
安易に連想された自由は、決して自由ではない。
だから、教室では、筆法や姿勢について、
時間をかけて、何度も繰り返し語りかけるように、
説明する。
簡単に理解できるとは、思っていないが、
それでも、なかなか時間がかかる。
生き生きした書は、言葉にすれば、簡単であるが、
書作品にしようと思うと、易々と出来ることではない。
だから、日頃から、意識して、お稽古する。
もう、何十年。
私は、きっと、一生、同じことを考えるだろう。
今では、私自身が、一番わかっている。
それでも、そう思い続ける。
それは、生き生きした書からしか、感動を得られないからである。
どんな書が生き生きとした書なのか。
それは、ある程度、経験を積んだ方なら、大抵同様に感じ取れるものであろうが、
その生き生きとした書にも、様々なタイプがあり、
自分自身が何を求めるのかは、人により、異なる。
書の世界には、
「40、50(才)は、ハナタレ小僧」
という言葉がある。
かつて、私がそうであったように、
20、30才台の方は、聞きたくない言葉かもしれません。
鼻を垂らすことが許され始めた私は、
ようやく、その言葉の深さがわかり始めたように思う。
何を生き生きとした書と感じるか。
20台、30台では、感じ取れなかったものが、あまりにも多い。
経験を積むことでしか感じ取れないものが、あまりにも多い。
最近、つくづく書の奥行きの深さ、豊かさに、魅了されている。
このまま、魅了され続けていては、私の人生は、
もう、他のことは、何もできないのではないか。
他のことで、これほど、感動出来ることは、あるのだろうか。
そんな不安する感じる程、
書は、素晴らしいと感じられ、
益々、生き生きとした書を求めている。